前編につづき、ミステリー作品が持っている「フィクションの力」について、その活用の可否を考察していきます。
前編において、SFとミステリーが持つ「フィクションの力」の共通性から、「ミステリー的な発想力を事件・事故の真相究明や歴史上の謎の解明に活用できる」という可能性を導き出しました。
しかしながら、考察を進めるうちに、このような「ミステリー的な発想力の活用」には限界がある、ということも見えてきました。
そこで後編では、まずミステリーと比較するために「SFはどのようにして現実世界に変革をもたらすのか?」ということについて説明し、続いて「ミステリー的な発想力の活用の限界」について解説したいと思います。
SFはどのようにして現実世界に変革をもたらすのか?
本記事の前編や、『SFプロトタイピング』に関する過去記事でも紹介しましたが、SFは「未来」を語るものです。
もちろん、過去を舞台にしたSFも多数存在します。
しかしながら、19世紀のロンドンを舞台にしたスチーム・パンクも、自衛隊員が戦国時代にタイムスリップする“あの傑作”も、じつは「未来」を描いているのです。
たとえば、スチーム・パンクの名作『ディファレンス・エンジン』は、チャールズ・バベッジの発明品である『差分機関』の完成によってもたらされた「未来」の姿(蒸気機関が著しく発展した1850年代のロンドン)を描いています。
また『戦国自衛隊』は、自衛隊員と近代兵器のタイムスリップによって変容する戦国世界の「未来」を描いています。
以上のように、多くのSFでは、たとえそれが過去を舞台にした作品であったとしても、思索のベクトルは「未来」に向かっています。
『SFプロトタイピング』では、SF作品が描き出す「未来」の姿に基づいて、企業のビジョンや新規事業について議論します。
このときに大切なのは、議論するということです。すなわち、SF作品の「未来」を予言として受け入れる必要はありません。むしろ否定的に捉えて議論を展開するほうが有益な場合すらあるでしょう。
ようするに、『SFプロトタイピング』において、SF作品は議論を深めるための起爆剤になればよいのです。
したがって、『SFプロトタイピング』で語られる「未来」に「正しさ」を求める必要はありません。
たとえば、アポロ計画の中核を担った科学者フォン・ブラウンは、ジュール・ヴェルヌのSF小説『月世界旅行』に感銘を受けてロケット開発の道に進んだといわれています。
しかし『月世界旅行』に、正確な未来予測や科学的に正しい情報が提示されていたわけではありません。
その良い例が、『月世界旅行』における「月に人間を送る方法」です。『月世界旅行』では、大砲を使って、人間の入った砲弾を月に撃ち込みます。
しかし実際にそんなことをしたら、砲弾内部の人間は射撃の瞬間に強烈な加速度に潰されて即死します。
ですから、フォン・ブラウンをはじめとした科学者たちは、月まで弾を飛ばせる「大砲」ではなく「ロケット」の開発に心血を注いだのです。
つまり、フォン・ブラウンたちは、『月世界旅行』にインスパイア(感化)されて議論と思索を積み重ねたすえに「月に人間を送る」という未来の姿を現実のものにしたのです。
このように、SF作品は、人々にインスピレーションを与えることで、現実世界に変革をもたらすのです。
ミステリー的な発想力の活用の限界
ミステリー作品においては、思索のベクトルは「過去」に向かっています。
ミステリー作品を「事件発生から解決までの物語」と解釈すれば、なるほど、ミステリー作品も事件発生を起点として「未来」を語っている、と言えなくもありません。
しかしながら、SFとミステリーでは、「何を探求するのか」という方向性が大きく異なっています。
ミステリー作品では、「事件」すなわち「過去」の出来事の真相を暴くことが焦点になります。したがって、思索のベクトルは「過去」に向かわざるをえないのです。
ここで重要なのが、SFで想像する「未来」と、ミステリー作品で探求する「過去」の、本質的な差異です。
「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」とはカナダの精神科医エリック・バーンの言葉ですが、これを引用するまでもなく、未来は可変であり、過去は不変です。
当然のごとく、ミステリー作品を用いて、実際に起こった出来事(現実世界の過去)を変える、といったことも不可能です。
ですから、たとえば
犯人「A」が起こした事件について、
別人「B」が犯人であるというミステリー作品を創作したとしても、
実際の犯人が「A」から「B」に変わるわけではありません。
『月世界旅行』はフォン・ブラウンにインスピレーションを与え、「月に人間を送る」という未来を現実のものにしました。
しかしながら、「Bが犯人である」というミステリー作品に『月世界旅行』と同様の効果は期待できません。もしも人々がこのミステリー作品に感化されてしまったら、生まれるのは冤罪です。
逆に「Bが犯人である」という物語を否定的に捉えて議論を深めれば、真犯人「A」に辿り着けるかもしれません。しかし、それにしたところで「B」の名誉を著しく傷つけるという別の問題を発生させてしまいます。容疑者と犯罪者の混同が生じがちな日本社会において、これは「B」の社会的抹殺と同義です。
このように、ミステリー的な発想力には危険な側面があります。
ですから、たとえば現在も懸命な捜査が続いているであろう実在の事件や事故についてミステリー的な発想力を発揮することには慎重を要します。
つまり、これがミステリー的な発想力の活用の限界です。
まとめ(後編)
ミステリー作品には、我々の思考を「想定外」あるいは「常識を超えた」領域へと導く優れた力があります。
しかし、その力を用いるべきか否かは、付随して生じる被害を「想定」し、「常識的な観点」から判断しなければならないのです。
今回はここまでです。