小説『女王国の夜明け』の第三部『邪馬台国・仮説編』をお送りいたします。
名探偵に憑依されている、と主張する旧友のTくん。
彼が推理によって導き出した邪馬台国の候補地とは?
電話
――邪馬台国は、人吉盆地にあった。
Tくんは、少し芝居がかった調子で、そう告げた。
わたしは「邪馬台国人吉説か、あまり聞かないな」と応じつつ、スマートフォンの検索バーに『邪馬台国』『人吉』と入力した。
検索結果はすぐに出た。
それによると、『邪馬台国人吉説』を最初に唱えた人物は、中国語学者・工藤篁(くどう・たかむら)であるらしかった。
1972年9月刊行の『朝日アジアレビュー』に、当時東京大学教授であった工藤氏による『邪馬台国にいたるみち』という記事が掲載されているようだ。
Tくんにその旨を伝えたところ、どうやら彼も同記事の存在は認識しているようだった。
――たしかに俺の仮説は、候補地の観点からいうと、新説ではない。
Tくんは、そう認めてから、つづけた。
――邪馬台国論争というのは江戸時代から続いている。だから、邪馬台国の候補地も、いまや全国各地に存在する。人吉盆地もご多分に漏れず、すでに邪馬台国の候補地になっている。だけど、俺と工藤氏とでは推理過程がまったく違う。
「ネットの情報によると、工藤氏は、不弥国を福岡県飯塚市に比定し、そこからの水行を遠賀川の遡行に当てているみたいだな」
――うん、俺も同じ情報を得ている。それで安心したんだ。なにしろ俺の推理には、福岡県飯塚市も遠賀川も登場しないからね。
「なるほど、きみの推理結果は新たな候補地を提示するものではない。だけど、推理過程の面では新しいというわけか。そういえば、『邪馬台国の秘密』のなかで神津恭介も『既に発表されている候補地に辿り着いても、その論拠や推理過程が重要』といっているな」
――そうそう。複数の名探偵が異なる推理過程を経て同じ犯人に辿り着くようなものさ。
「しかしなぁ……工藤氏が執筆した記事の内容を確認してみないことには、ほんとうに推理過程が異なっているのかを判断することはできないんじゃないか?」
――それはそうなんだけどね、残念ながらネットでは『邪馬台国にいたるみち』の内容を確認できない。そこでひとつ頼みがあるのだが……
図書
Tくんとの電話から数日後の夕刻。
わたしは定時で職場をあとにして、国立国会図書館に向かった。
わたしの勤め先は、Tくんが勤める電機メーカーのような大企業ではないが、都心の一等地にオフィスを構えている。国会図書館も徒歩圏内だった。
国会図書館に到着したわたしは、館内PCのカードリーダーに『登録利用者カード』をセットして、文献検索を開始した。
30分後。
『邪馬台国にいたるみち』を読み終えたわたしは感嘆した。もうこれが答えでいいんじゃないかと思うほど説得力のある記事だったからだ(図書館内なので、感嘆の声をあげることはなかったのだが……)。
帰宅しても興奮は冷めず、わたしは本棚から石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)―』を取り出すと、ノートパソコンの電源を入れて、さっそく情報の整理を開始した。
わたしは、まず『魏志倭人伝』の中から「帯方郡から邪馬台国までの行程」に関する記載のみを抜き書きした。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歷て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。
始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。
また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。
また一海を渡る千余里、末盧国に至る。
東南陸行五百里にして、伊都国に到る。
東南奴国に至る百里。
東行不弥国に至る百里。
南、投馬国に至る水行二十日。
南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
郡より女王国に至る万二千余里。
石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)―』
なお、『魏志倭人伝』には、対馬国について『方四百余里ばかり』と書かれ、一大国について『方三百里ばかり』と書かれている。ただし、これらはそれぞれの国の大きさに関する記載であり、各国間の距離を示すものではない。
ここで、上に列記された国々のうち、郡すなわち帯方郡から奴国までの故地に関する通説は、下記のとおりである。
- 帯方郡:韓国ソウル付近
- 狗邪韓国:韓国釜山付近
- 対馬国:長崎県対馬市
- 一大国:長崎県壱岐市
- 末盧国:佐賀県唐津市(松浦川下流域)
- 伊都国:福岡県糸島市(旧怡土郡、三雲・井原遺跡付近)
- 奴国:福岡県春日市/福岡市(須玖遺跡/那珂遺跡付近)
問題は、このあとに登場する不弥国だ。
不弥国の故地については、主に福岡県糟屋郡宇美町を推す説と、福岡県飯塚市(旧穂波郡)を推す説が存在する。
工藤氏は『邪馬台国にいたるみち』のなかで、飯塚市立岩遺跡付近を不弥国の故地としている。これがつまり、ネットにあがっていた『不弥国を福岡県飯塚市に比定』という情報の根拠である。
わたしは、以上の情報を地図上にプロットしてみた。
ここで気になるのは、末盧国と伊都国の位置関係だ。
『魏志倭人伝』には、末盧国から『東南陸行』して伊都国に到達すると記されている。
ところが、末盧国とされる唐津(松浦川下流域)からみて、伊都国とされる糸島市(三雲・井原遺跡付近)は東北に位置している。
この点については、わたしだけではなく、多くの人が、違和を感じるのではないだろうか。
とはいえ、邪馬台国が存在した三世紀に、Google マップは存在しない。したがって、当時の人々が自分の位置や移動経路を正確に把握することは、極めて困難だったはずだ。
だから、たとえば魏使が、唐津から海岸線に沿って東に進み、その後、三雲・井原遺跡が存在する内陸部へ南下した(つまり、全体として東南へ移動した)という感覚を持ったとしても、それは仕方のないことなのかもしれなかった。
もちろん異論はあるだろうが、いずれにしても伊都国、奴国を経て、不弥国までは辿り着いたわけだ。
しかし、ここからが、さらに難解なのだ。
南、投馬国に至る水行二十日。
南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
この二つの文章を文言どおりに解釈すると、不弥国を出発して南へ水行すること20日で投馬国に到着し、さらに南へ10日の水行と1か月の陸行でようやく邪馬壱(台)国に到着することになる。つまり、不弥国から邪馬台国までの行程は2か月(水行20日+水行10日+陸行1か月)を要することになってしまうのである。
しかし、九州北部から2か月間も南へ向かえば、当然のごとく九州南端を通り越して、はるか洋上に到達してしまうだろう……。
まさに、この『水行陸行』記事のために邪馬台国の故地が不明になったといっても過言ではないのである。
そのため、邪馬台国畿内説においては、『南、投馬国に至る』『南、邪馬壱国に至る』を『東、投馬国に至る』『東、邪馬壱国に至る』の誤りであると解して、われわれを奈良盆地へと誘う。
しかし、工藤氏は、不弥国すなわち飯塚市立岩遺跡付近から素直に南に向かって遠賀川を遡行するルートを想定している。すなわち、これが『不弥国からの水行を遠賀川の遡行に当て……』という、もう一つのネット情報の根拠である。
なお、『邪馬台国にいたるみち』のなかでは、遠賀川から先の行程(投馬国の比定地である熊本県玉名市を経て、邪馬台国の比定地である人吉盆地に至る行程:冒頭の地図の赤矢印のルート)についても詳しく語られている。しかしながら、それらの内容は福岡県飯塚市も遠賀川も登場しないというTくんの仮説とは大きく異なっているだろうから、ここでの記載は割愛する。
ただし、繰り返しになるが、『邪馬台国にいたるみち』の内容は、もうこれが答えでいいんじゃないかと思えるほど、素晴らしいものだった。
はたしてTくん――あるいは、彼に取り憑いた名探偵――は、より説得力のある仮説を打ち出せるだろうか?
そんな疑問と、“もしかしたら” という期待を胸にいだきつつ、わたしは、まとめた情報を保存してからノートパソコンをシャットダウンした。
第三部・完(第四部『邪馬台国・推理の糸口編』につづく)
※本作の登場人物であるTくんのモデルは、当ブログ『もなきよの創作プロトタイピング』を運営するわたしの実在の友人です。ただし本作の内容は、あくまでも創作です。