女王国の夜明け(4)~邪馬台国・推理の糸口編~

小説

 小説『女王国の夜明け』第四部『邪馬台国・推理の糸口編』をお送りいたします。

  • 本作を最初(第一部)からご覧になりたい方は、こちらからどうぞ。
  • 前回(第三部)をご覧になりたい方は、こちらからどうぞ。

 邪馬台国は人吉盆地にあったと主張するTくん。
 しかし、『邪馬台国人吉説』に辿り着いたのはTくんが最初ではなかった。
 なんと半世紀以上も前から、人吉盆地は邪馬台国の候補地だったのである。

 ただし、Tくんはいう。
 自説と旧説とでは推理過程がまったく違う、と。

 果たして、Tくんが掴んだ推理の糸口とは?

会食

 Tくんと待ち合わせたのは、新宿駅ちかくの居酒屋だった。
 わたしは約束の時間よりも10分ほど早く現地に到着したのだが、店員に案内された個室をのぞいたところ、そこにはすでにTくんの姿があった。

 Tくんは「よう」と片手をあげて、わたしを迎えた。
 わたしは「おう」と軽く応じ、それで再会の挨拶は終了した。
 数年ぶりの会食ではあるが、先日電話しているし、そもそもTくんとわたしは『感動の再会』を期するような関係ではないのである。

 わたしたちはビールでのどを潤してから、さっそく邪馬台国に関する議論を開始した。

「それで、例の記事の内容はどうだった?」

 というTくんの問いに対し、わたしは、

「なんだか本当に名探偵の助手になったような気分だな……」

 とぼやいてから、カバンを開いた。そして、国会図書館で入手した『邪馬台国にいたるみち』のコピーを取り出した。

「まずは自分で読んでみてくれ」

 コピーを受け取ったTくんは、しばらくそれを黙読してから、「これはすごいな」とつぶやいた。

「やはり、そう思うか?」

「うん、すばらしい。とくに奴国から直ちに南へ向かわず、東の不弥国を経由する理由なんて、驚くほど論理的じゃないか」

 1972年9月刊行の『朝日アジアレビュー』に掲載された記事『邪馬台国にいたるみち』のなかで、中国語学者・工藤篁は、『魏志倭人伝』に登場する奴国の候補地を福岡県福岡市の那珂遺跡および春日市の須玖遺跡付近とし、不弥国の候補地を同県飯塚市の外岩遺跡付近としている。

 ここで、『魏志倭人伝』に書かれている「奴国-不弥国投馬国の行程」は、下記のとおりである。

東南奴国に至る百里。

東行不弥国に至る百里。

南、投馬国に至る水行二十日。

石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)―』

 ところで、奴国の候補地である那珂遺跡/須玖遺跡の近傍には、南北に御笠川が流れている。
 さらに、その先には宝満川があり、筑後川、有明海という水行ルートにつながっている。
 したがって、御笠川と宝満川の存在を考えた場合、奴国水行(南、投馬国に至る水行二十日)の起点とすることも可能、もっといえば奴国を水行の起点としたほうが自然なのである。

 ところが、『魏志倭人伝』には、わざわざ東へ百里移動して不弥国に行き、そこから南下すると記されているのだ。

 この「不弥国行き」の理由について、工藤氏は、狗奴国の位置に注目している。

『魏志倭人伝』には以下のような記述がある。

女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。
次に斯馬国あり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国ありこれ女王の境界の尽くる所なり。
その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり、女王に属せず。 
郡より女王国に至る万二千余里。
(下線引用者)

石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)―』

 上記の内容、特に下線部については「奴国の南に狗奴国が存在した」と解釈する論者と、奴国に限定せず「女王の勢力圏の南に狗奴国が存在した」と解釈する論者がいる。
 工藤氏は前者であり、男子を王となす狗奴国は、「御笠川・宝満川」という「奴国から投馬国に至る最短ルート」を遮断する位置に存在したという立場を取っている。
 つまり、魏使は狗奴国を避けるために不弥国から水行二十日にして投馬国に至る迂回路を行かざるをえなかった――というのが工藤氏の説である。

「やはり、そのあたりの合理性が担保されているというのは、ミステリー愛好家には刺さるよな」

 と、わたしが感想を述べると、Tくんは、

「そうそう、合理性は推理において極めて重要なファクターだからね」

 と同意してから、つづけた。

「さらに『邪馬台国にいたるみち』は『魏志倭人伝』の記述に忠実であるという点においても、ミステリー的な要件を満たしている」

「それは、たとえば『、投馬国に至る』という原文を『、投馬国に至る』というように、都合よく変更するような真似はしていない、ということだね?」

「そのとおり。ミステリー的な観点からいえば、原文の変更は厳に慎むべきだよ。それは、暗号ミステリーにおいて、探偵が『この箇所は自分の推理結果と合わないから暗号文のほうを変えます!』と宣言するようなものだからね」

「そういう意味では、『邪馬台国にいたるみち』は、かなり評価が高くなるよな。なにしろ、不弥国を経由する理由も明確だし、不弥国から先の行程も原文どおり南下するルートとされているのだからね」

「たしかに俺も、当時の知見に基づく推理としては、最高レベルの完成度だと思うよ」

「当時の知見だって? 『邪馬台国にいたるみち』が書かれた当時と現在で、邪馬台国研究を取り巻く状況にそれほど違いがあるとは思えないが……」

「大いにあるよ」

「というと?」

「たとえば1972年には、まだ吉野ケ里遺跡の埋蔵文化財確認調査は行われていない」

「その確認調査というのは、いつ行われたの?」

「1986年。そしてその調査によって、弥生時代における佐賀県南部の重要性に注目が集まったのさ」

「吉野ケ里遺跡の確認調査は、記事が書かれてから14年後のことなのか……。たしかに『邪馬台国にいたるみち』では、佐賀県南部はそれほど重要視されていないね。いくつかの『傍国』が有明海沿岸部に存在していた可能性には言及されているけど」

「ようするに、記事が書かれた1972年当時、佐賀県南部に有力な『国』が存在したという推理を展開することは極めて困難だった、ということさ」

 Tくんは、そのようにまとめてから、少しだけ背筋をのばした。

推理

「では、先人の業績についてはこれくらいにしておいて、そろそろ俺の推理の話に移ろうか」

「異存はないよ。なにしろ今日はそれを聞きにきたのだからね」

「では、最初に推理の前提から話しておこう。ポイントはふたつある。まず、電話で伝えたとおり、俺は名探偵として『邪馬台国比定地問題』に取り組んだ。つまり、この『問題』を一種の暗号ミステリーと捉えて、その解決を目指したわけさ。だから、史料の記載変更は原則禁止。これが、ひとつめのポイントだ」

「さきほどもいっていたね。原文の変更は厳に慎むべきだと」

「うん、暗号文を無視した暗号ミステリーなんて興ざめだからね」

「なるほど。では、ふたつ目のポイントは?」

「それは合理性だよ」

「その点も、さきほど話題になったね」

「うん。暗号ミステリーである以上、推理の結果は、帯方郡から邪馬台国までの『水行』や『陸行』といった行程を合理的に説明できるものでなければならないと思うんだ」

「たしかに重要なポイントだね」

 わたしがそう応じると、Tくんは満足げに頷いてから、今度は逆に質問してきた。

「ところで、きみは、邪馬台国をめぐる最大の難問はなんだと思う?」

「そりゃあ、投馬国までの『水行二十日』と邪馬台国までの『水行十日陸行一月』をどう解釈すべきか、ということだろう」

そんなものは難しくもなんともないよ

「え!?」

「まあ、それについては後で説明するとして、答えをいってしまうと最大の難問は『伊都国比定地問題』だよ」

「いやいや、伊都国の比定地は怡土いと、つまり福岡県いと島市で決まりだろう。地名の類似性、遺跡、出土品。いずれの観点からも、これは揺るがないと思うぞ」

「まあ俺も『糸島に伊都国があった』という説には同意するよ」

「じゃあ解決しているじゃないか」

「ところが解決していないんだな。たとえば国と伊都国の位置関係だ。『魏志倭人伝』には、末盧国から『東南陸行五百里』にして伊都国に到達すると記されている。しかし実際のところ、末盧国とされる唐津からみて、伊都国とされる糸島は東北に位置している」

また一海を渡る千余里、末盧国に至る。

東南陸行五百里にして、伊都国に到る。

石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)―』

「たしかに俺も、その点には違和感を覚えるよ。でも、『魏志倭人伝』が書かれたのは三世紀のことだからね。方向の記載が少しばかり不正確だとしても仕方がないんじゃないか?」

「これは『少しばかり不正確』というレベルじゃないよ。東南東北では90度も違うんだ。きみは『、投馬国に至る』という原文を『、投馬国に至る』に変更することには反対するのに、『東南陸行』を『東北陸行』というように90度ずらして読むことは良しとするのか?」

 わたしが返す言葉を探していると、Tくんは、さらに『伊都国糸島説』の矛盾点を指摘した。

「それに、末盧国から伊都国に『陸行』するというのも、じつに不自然じゃないか。なにしろ『魏志倭人伝』には、伊都国に『津』すなわち『港』があると記されているんだから」

女王国より以北には、特に一大卒を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。(下線引用者)

石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)―』

「もしも末盧国が唐津で、伊都国が糸島だとしたら、唐津まで船でやってきた魏使はそのまま船で唐津湾を横断して糸島のに向かうはずだ。彼らが輸送力に優れる船を捨て、重い荷物を担いで港から港まで陸行するなんてことがあるだろうか?」

「たしかに唐津の港から糸島の港まで陸行する合理的な理由を見出すのは難しそうだな……」

 と応じたわたしに、Tくんは人差し指をたてて「さらに、もうひとつ問題があるんだ」と畳みかける。

「伊都国の戸数だよ。『魏志倭人伝』には伊都国に『千余戸あり』と記されている。ところが、『魏志倭人伝』よりも成立が早いともいわれる『魏略』では、伊都国の戸数は『万余戸』とされているんだ」

「十倍になっている……、いや『魏略』のほうが先だとすると十分の一か。でもそれは、どちらかが書き間違いをしているだけなのでは?」

「さすがに千と万は間違えないだろう」

「東南と東北を間違えないのと同じように?」

「そのとおり。それに、ミステリー的な観点から……」

「はいはい、史料の記載変更は原則禁止、だろ?」

「よくわかっているじゃないか」

「しかしなぁ、そうすると、『魏志倭人伝』の記述が実際の地理や『魏略』の記述と整合しないことを、どう解釈すれはいいんだ?」

「まさに、そこがポイントなんだ。この伊都いと国』をめぐる謎こそが、推理のいとなのさ」

 Tくんは、そう得意げにいってから、ふたたびビールを口にした。

 第四部・完(第五部『邪馬台国・いと編』につづく)

タイトルとURLをコピーしました